大阪鉄道郵便局 米原分局跡

平成28年5月31日

国鉄、近江鉄道米原駅に隣接して大阪鉄道郵便局米原分局があり、庁舎は近江鉄道を跨いで国鉄ホームと専用通路で直結していました。

昭和20年6月1日に大阪鉄郵米原駅派出所として開設、24年7月1日に米原分局と改称されました。当初は別の場所に木造の庁舎がありましたが、44年11月10日、駅に隣接して鉄筋3階建ての庁舎を新築しました。東京門司線(東海道本線)、大阪青森線(北陸本線)、米原貴生川線(近江鉄道)を分岐する接続駅に位置し、米原貴生川線、大阪青森線(大阪鉄郵乗務員に同乗)の乗務と駐在業務(米原駅受け渡し、各種郵便物の区分、分配、自動車便中継)を行っていました。また、米原町(現米原市)の集配局である米原局は駅で受け渡しをせず、分局だけが受け渡しするという珍しい形態であったほか、あらゆる種類の郵便物を区分、差立しており、全国の鉄郵、分局の中でも数少ないタイプの業務内容で、分局の中では比較的大規模の庁舎でした。長年にわたり滋賀県の拠点局として重要な役割を担ってきましたが、59年2月1日に米原貴生川線の輸送を廃止、そして、鉄道郵便局で最後まで残った東京門司線(東海道本線)の輸送廃止を待たずに60年3月1日に廃止されました。

米原駅東口の再開発が大がかりな駅改良に合わせて行われたためか、庁舎は廃止後も長年にわたって解体されないでその姿をとどめました。新幹線と反対側の東口を出ると薄いベージュ色をした3階建て鉄筋コンクリートの建物が見え、近江鉄道線が脇を走っていて、近江線米原駅も木造の旧駅舎が残りましたが、当時の国鉄ホームは撤去されてJR東口の駅前道路にする工事が進行したので、近江線駅舎は取り残されたように50メートルほど離れてしまいました。庁舎は上から見ると台形の独特なレイアウトのA棟だけが残り、さらに東側に通路で接続していたB棟は解体されていました。3階のJR側壁面には跨線橋が接続していた跡がありました。米原という接続点では、東海道を走る流れに、北陸に向かう流れと近江鉄道によって滋賀県東部を走る流れがつながっています。積み替えの間に郵便物を一時保管したり、乗務員の基地や事務を行うための建物が、ここにはありました。その郵便物を一時保管するための部屋でしょう、建物内に積み上げた郵袋で窓ガラスが割れないように鉄格子を設けた部屋が見えました。玄関は、線路と反対側になる東側にあり、局名標記も残されていました。小道と溝が走り、小道から溝を渡って建物に入るようになっていました。

この貴重な庁舎も平成22年の年頭には解体が確認されています。その後の駅前再開発の進展と共に、近江鉄道の駅はJR東口と合体して設置され、そのため、鳥居本方から1.6キロにわたり線路の付け替えが行われたので、ここに写る近江線と駅舎はなくなり、現在は造成が進み、分局庁舎跡と共に跡形もなく消えました。現役時の写真は「大阪鉄道郵便局史」から転載。廃止後の庁舎は平成11年1月15日、22年9月29日に会員が撮影しました。

  

   廃止前のA棟 B棟は民家に隠れているが      2階通常分配室、郵袋掛けの奥が区分室    米貴線の郵便車モユニ11と積み込みホーム

   2階通路が見て取れる                  右は郵袋投下設備(通称すべり台)        国鉄下りホームと直結していた

   3階の通路が駅ホームに向かって伸びる

★庁舎平面図

【分局跡】

    

                        A棟を東側から B棟とつながっていた通路の痕跡がわかる                   南端がとんがっている独特の建物

    

                玄関の局名標記は鉄製の浮出し文字 「米」の字が欠けているのが惜しい

  

   近江鉄道米原駅の背後に庁舎跡         ホームに面する西側壁面にも通路跡が残る    再開発が始まったころ

   電車の位置は上の郵便車とほぼ同じ                                                                              現在の近江線と駅舎は写真の右側に移転

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