輸送作業

ある日の車内写真から

1980年2月某日、北陸本線221列車の最後部に連結されたオユ10形「大阪金沢間下り便」の車内記録写真です。記念写真と言えなくもないですが、それはさておいて、実際の車中の様子を紹介します。(写っている乗務員の強い希望で顔出しNGです) 併せて、通常小口区分棚(ばかき、封書などの普通定形郵便物)の埋まり具合から、どのような配列で区分作業していたのか推測を加えました。

       

写真から外れている、通常小口区分棚のいちばん右端の列を再現した上で、当時の区分要領から、各区分口(口座とも言います)を推定しました。これは、各鉄道便ごとに制定され、訓練と通達で示されていましたが、区分担務者ごとに、身長や左右の利き手で、自分がやりやすいようにアレンジしていました。阪青線下り便の場合は、京都、滋賀県、福井県以北と進行しますが、大阪鉄道郵便局の受持ちは大阪駅から敦賀駅までの「阪敦乗務員」で、敦賀まで細かく区分して、あとは敦賀駅で交替する「敦直乗務員」にバサッと引き継げばいいかというとそうではなく、福井県は、敦賀以遠も規程により細かく区分して、大郵袋に納入した上で、敦賀駅で取り降ろし、又は車内引き継ぎをしました。この便は、荷物列車である大阪~米原間で、京都、草津(大津局と草津局)、近江八幡、彦根に停車して受渡をし、米原~敦賀間は普通列車に連結して沿線各局と受渡したので、区分要領もそれを反映したものとなっています。ただ、走行時間が日中であり、まだ各局の窓口営業が終わっていないため、午前中のポスト回収と窓口差し出しの郵便物しか積まれないこと、金沢までの運行なので、富山県以北の積み込みは少ないことから、阪青線下り便の中では、最も車中が閑散としていました。区分口も、担務者の立ち位置である右端から6列でこと足りており、福井県の3列は青線で囲んだ部分で、当然担務者一人で一度にすべて区分しますが、阪青下り便(急行501列車)だと、青森県までの各県と数量が多い主要局も口座があるため、右端から6~7列を設け、福井県区分は数量がもっと多いので、左半分の区分棚で別の1~2名が処理していました。さて、この写真から察するに、滋賀県長浜までの各局は抜かれてなくなっており、金沢、石川県以北も早めに抜き取られ、は束(写真台上に見える紙ひもでくくり束にすること)されて大郵袋に差し立てられた後のようで、福井県区分はそのままとなっています。そこで、列車が長浜駅を発車して一段落したあたりの様子と推測します。このあと積まれる郵袋は、各駅各局ごとにたいてい1個だけで、車中で処理する郵便物も各局が昼過ぎに納入した郵便物と駅前ポストで集めた数通が入るのみで全体的に少なく、敦賀駅から先で次第に忙しくなったと思われます。福井県の各口座を見ると、都市規模が大きい局は通数がそこそこありますが、他の局は少なめです。敦賀手前まで置いておくと大郵袋差し立てがバタバタするので、だいたい木ノ本駅を発車したあたりで敦賀以外をは束に取りかかり、大郵袋に入れて締切りました。おおむね10通に満たない区分口は、無理にひもでくくると、郵便物を曲げたり、端が破れたりするので、合わせ区分といって、例えば美浜~青郷間の局は全部重ねた上では束して、敦賀局に引渡して再区分してもらい、今庄~金津間は、右下の「引継・今庄以北」に入れて引き継ぎました。また大郵袋は、敦賀のほか、武生、鯖江、福井、金沢中央は個別に締切って、敦直乗務員に引き継ぐように金沢鉄道郵便局と協定していました。なお、受渡局名と駅名に相違があり、木之本局は木ノ本駅、中之郷局は余呉駅です。

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