金沢鉄道郵便局本局跡

2016年12月27日

金沢鉄道郵便局は、大阪青森線のうち敦賀直江津間や高山富山線、金沢輪島線、敦賀東舞鶴線、高岡城端線が所管でした。そのうち、本局庁舎は国鉄金沢駅から歩いて約5分の場所に立地しており、局長室や総務など管理部門がありました。一方で、阪青線敦賀直江津間、金沢輪島線の乗務と、石川県の小包分配業務は、金沢駅受渡業務は、金沢駅に隣接していた金沢駅郵便室の職員により行われました。

その前身は複雑で、後の北陸本線は明治17年長浜敦賀間の開通を手始めに、明治30年には長浜小松間に達するまで金沢には届いておらず、この間にも郵便車の連結は行われていたものの、乗務したのは神戸郵便電信局員でした。その明治30年、中越鉄道黒田(現二塚駅付近)~福野間、後の国鉄城端線の一部が開通したとき郵便車が連結され、金沢郵便電信局が高岡駅に駐在員を置き乗務を担当しました。同年のうちに高岡駅を開設の上で黒田駅を廃止し、福野城端間を延長開業したので、高岡城端間の乗務となりました。実質的にはこれが金沢鉄道郵便局の前身と言えます。さらに翌年には七尾鉄道本津幡七尾間が開通し七尾に駐在員を置き郵便車に乗務します。そして同年に小松金沢間が開通、さらには高岡まで延長され、米原以北の一部乗務を神戸から移管すると共に金沢郵便電信局は「鉄道郵便掛」を創設して金沢鉄道郵便局の母体が生まれました。さらに翌年には高岡富山間の開通と、北陸本線が次第に延伸されていき、小松以南は神戸局主体で乗務した一方、小松富山間を全面的に担当し、明治36年4月1日、全国11鉄道郵便局開設の際に「金沢鉄道郵便局」が誕生しました。その後、北陸の鉄道路線は国有化と開通を繰り返して後の国鉄、JR線を形作っていきますが、一時は金沢郵便局に統合されても再び独立し、戦時下に富山鉄道郵便局、さらに新潟鉄道郵便局金沢派出所への改称を経て、昭和20年8月に金沢鉄道郵便局の名を取り戻し、廃止の日まで北陸地区で郵便輸送業務の根幹を担ってきました。

名称が多難なら庁舎もまた多難でした。初代庁舎は明治44年3月11日に木造2階建てで金沢駅隣接地に建造し、組織改革の変遷にもまれて空き部屋になったりしましたが業務が金沢に戻ると再開しています。しかし太平洋戦争時に空襲対策と思われる建物間引き(どこかに爆弾が落ちても類焼を防ぐ?)で局舎が解体され、業務はホーム設置の小部屋と駅から離れた学校内に分散し、遠くて不便とわかると、こんどは駅近くの医院跡に移転し、乗務員は病室で待機、点呼を行ったそうです。戦後の昭和22年5月に金沢駅構内に二代目庁舎を再建して業務が始まったのもつかの間、金沢駅ホーム拡張のため移転を求められ、昭和36年12月12日に駅近くの市街地に鉄筋コンクリート2階建てで新築した三代目庁舎が最後の廃止まで使用されました。路線は1982年の「(昭和)57・11郵便輸送施設改廃計画」で高岡城端線が廃止されたのを皮切りに、1984年の(昭和)59・2改正で大阪青森線を残して廃止となり、1985年(昭和61年)3月に金沢鉄道郵便局は大阪青森線廃止に伴って廃局となりました。その後の庁舎は1993年から金沢共通事務センターに転用されました。各郵便局の経理および給与事務を郵政局単位で移管・集約した部署です。2007年に金沢共通事務集約センターとなって日本郵政グループ金沢ビルに移転した後は使われなくなり庁舎は解体されました。

   
                                  初代庁舎                                                             二代目庁舎                                                                三代目庁舎 

【転用後】 金沢共通事務センターに転用され同センターの移転で空室となった状況(2007年6月撮影)

  
            へいに囲まれて1階が見にくいが表側
                                                          こちらが裏側
            手前のひさしが正面出入口

【跡地の様子】

 
    解体後は空き地
に 2012年9月15日撮影         その後は時間貸駐車場に 2013年9月21日撮影

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