京都下関(京下~けいしも)線

旧国鉄山陰本線の郵便線路。厳密には幡生下関間1区間が山陽本線ではあるものの、現在のJR線区として最長距離路線となっています。全線を同一の車両、列車番号により運転された列車はなかったものの、大阪博多間を山陰本線経由の特急「まつかぜ」が運転されていたことでも有名です。しかし鉄道便は京都下関間下便、上便がほとんど普通列車連結で運行され、下りは25時間(一部区間は急行)、上りは28時間半もかかって走破していました。便名ごとの所要時間では京下上便が最長の鉄道便ではないかと思われます。山陰本線としては旅客の長距離直通需要は少なく、京都、大阪、姫路~北近畿地区、岡山~鳥取又は米子、小郡(現:新山口)~島根県各地といった「陰陽連絡」の需要が旺盛でしたが、郵便物は律儀に日本海沿いにこの線路をたどって輸送されたため所要時間がかかる面もありましたが、重要な郵便線路でした。

★歴史

日本海に沿い端から順次建設されたわけではなく、鳥取県では1902年(明治35年)に境港~米子~御来屋間で開業、京都側からは1910年に綾部まで開業と、地区ごとの需要により各地で開業した路線がつながる経緯をたどります。ここでも兵庫県余部の地形に代表されるように香住鳥取間の建設が困難を極める中、余部鉄橋の完成により1912年に京都~今市(現:出雲市)間が開業して郵便車の直通も始まりました。一方で、島根県西部から山口県にかけても建設困難な箇所があって、いくつかの区間開業を経て、1933年(昭和8年)にようやく京都下関間が全通しました。郵便輸送は全通以前に各地で開業の都度、郵便車連結が行われ、全通により京都下関線と名乗ったと考えられ、1925年には米子鉄道郵便局が開設されています。陰陽連絡の各線も郵便線路で、主要接続駅では相互に積み替えしながら山陰地方の郵便輸送を担いました。並行する高速道路建設が行われなかったため鉄道輸送は重要視され、1984年2月の59・2改正合理化では護送便、締切便の運行が継続されました。(但し京都発はすべて締切便) しかし、1986年(昭和61年)10月1日の鉄道郵便輸送廃止よりも早く、同年3月1日をもって京下線は米子鉄道郵便局ともども廃止されました。

★運行系統

距離が長く、輸送量は区間によっては多い反面、駅によっては郵袋1個のみ受渡するなどローカル線の輸送実態が見られ、最盛期でも京都・福知山(阪鶴線から直通)~下関の全線系統各1往復、京都~米子、出雲往復などで運行され、浜田江津間は江津浜原線直通便も混在していました。夜行の急行や普通列車により主要局を結ぶ便と、日中の普通列車で沿線各駅を受渡する便に二分されており、相互に積み替えしながら輸送を担うほか、荷物車による託送便で補完していました。

★郵便車使用形式

スユニ60・61形式といった半室郵便車で長らく運行され、晩年にはスユニ50形式への置き換えが行われましたが活躍は数年で終わり、59・2改正後にオユ11など東門線等で使用しなくなった全室郵便車が転用されましたが、締切便でしかも車内の積載がわずかであったことが皮肉でした。 

★担当鉄道郵便局

距離と乗務時間が長く、乗務は複数の鉄道郵便局で分担し、乗務員は途中駅で交代しました。

大阪鉄道郵便局京都分局 ⇒ 京都駅~鳥取駅間を往復乗務。乗務員名は「京鳥(けいちょう又はけいとり)乗務員」。
                                                      (福知山~
鳥取間は大阪鉄道郵便局により大阪福知山便から直通乗務あり)
米子鉄道郵便局                 ⇒ 鳥取駅~浜田駅間を乗務。米子~鳥取~浜田~米子の経路、又はその逆で乗務。(行路により異なる)
                                                      乗務員
名は「鳥浜(とりはま)乗務員」。
広島鉄道郵便局下関分局 ⇒ 浜田
駅~下関駅間を往復乗務。乗務員名は「浜下(はましも)乗務員」。

【関係資料】

時刻表  下り(京都浜坂間) 下り(岩美米子間) 下り(安来波子間) 下り(浜田下関間)

      上り(下関津田間) 上り(鎌手玉造間) 上り(松江宝木間) 上り(鳥取京都間) 58年3月改正

結束表  京下下 京出下二 京下上 京出上

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