金沢鉄道郵便局高岡分局跡
2021年7月3日
大阪青森線(北陸本線)から高岡城端線(城端線)が分岐する高岡駅構内の北陸本線上り(当時2、3番線)ホーム上の金沢寄り先端に高岡分局がありました。
高岡駅の郵便輸送は明治30年6月5日、城端線の一部、黒田(現・高岡)~福野間に乗務便が開設されたのに始まります。同年12月には城端まで延長され、金沢郵便電信局による乗務が行われますが、いまだ北陸本線は高岡に到達しておらず、明治31年11月1日に金沢高岡間の乗務便開設に至り、高岡駅の積み替え業務が始まりました。さらに明治32年3月20日、高岡富山間の開通で高岡駅を中心とした3方向の郵便輸送が始まりました。当初の高岡駅駐在拠点は不明ながら、初代局舎は明治35年12月28日に駅構内鉄道用地に木造平屋建を新築しました。昭和24年に小包分配作業開始に伴って手狭になり二階建てに増築しましたが、昭和29年3月27日に国鉄用地返還のため二代目となる木造平屋建鉄板葺き局舎をホーム上に建設し、二度の増築で小包分配室と寝室を拡張し、これが最後まで使われることになります。高岡局の中継と阪青線、高城線の積み替え、米原方向からの富山県93地域の小包、速達小包の分配業務、高城線の乗務など、小規模ながら多彩な業務を行いました。また、かつて乗務便があった高岡氷見線は昭和32年以降は託送便となって引き続き分局が受渡したほか、高岡新湊託送便は路面電車(当時加越能鉄道:現万葉線)で、分局員が駅前電停で郵袋を運転手に委託していたとの証言があります。こうして、富山県南部の輸送拠点として活躍した分局でしたが、昭和57年11月15日に高城線が廃止、自動車便化されたため高岡駅の積み替え業務がなくなり、小包分配業務の富山南局移管、高岡局受渡の逓送員委託(トラック運転手による構内搬送と積み降ろし)が行われたため分局は廃止されました。その後の1986年(昭和61年)3月1日には阪青線の輸送が廃止され、高岡の鉄道郵便輸送に終止符が打たれました。
庁舎廃止後は解体撤去されて旧国鉄2、3番線(北陸本線下り)ホームの金沢方先端で舗装されてホームの一部となりました。JRになったのち、ホーム番号の付与順序が変わり、5、6番線となり、2015年3月14日、北陸新幹線金沢開業と共に、北陸本線倶利伽羅~市振間が「あいの風とやま鉄道」に移管され、高岡駅施設は同社の管理下となりました。(城端線、氷見線はJR線) それに先立つ2011年8月に橋上駅舎工事が完了するころまでは、各ホームを結ぶ旧郵便荷物通路とエレベーターは残されており、車いす利用者の乗降や、ホーム売店への商品搬入に使われていたと推定できますが、橋上駅舎ではホームごとに新しいエレベーターが設置されたため、旧郵便荷物通路、エレベーター共に撤去されたようです。後年に再訪問して、旧エレベーターを撤去した位置を見ると、ホーム屋根と支柱が両隣のそれよりも新しくて形状も異なり、旧エレベーターの痕跡を見いだすことができました。
現在、あいの風とやま鉄道、JR氷見線、城端線の各列車や貨物列車が行き来する高岡駅は特に夜間は構内も静まりかえっていますが、当時は夜行列車、貨物列車が頻繁に発着し、貨車の解放、連結といった構内作業もあり、出発と入れ換えのたびに機関車が警笛を鳴らすにぎやかさであったため、平面図でわかるように分局がホーム上で寝室も備わっていたのが駐在員泣かせで、ある人は手記で「仮眠するにも列車音がうるさくて眠れなかった」と書き記しています。
二代目分局庁舎位置 平面図 分局庁舎
旧駅ビル本屋側のエレベーター建屋 5、6番線(旧2、3番線)ホームのエレベーター(富山側扉) 同エレベーターの金沢側扉と通路を支える支柱
郵便トラックはここに発着したと推定される 郵便荷物用エレベーターをホーム中央に設置する場合
荷物列車に対応するため両方向に扉を設けた
3、4番線(旧北陸本線上り4、5番線)エレベーター 同エレベーターの金沢側扉と通路支柱 4番線に停車する上り「日本海」はトワイライト塗装機の牽引
富山側扉 支柱と通路の位置関係がわかる 背後に3、4番線と1、2番線のエレベーター建屋がある
2011年4月23日 会員撮影
5、6番線のエレベーター撤去跡 3、4番線の撤去跡 屋根下からも側面からもわかる 背後は駅舎本屋そばの積み込み施設跡に駅ビルが建つ
ホーム屋根が新しくなっていて判別が容易 車両も駅名板もすっかり変わった
1、2番線(城端線)ホームの撤去跡は屋根が半分だけ 5、6番線ホームと、分局庁舎跡の位置
2017年4月15日 会員撮影 2017年12月2日撮影(京都市・百合様ご提供)