鉄道郵便輸送の歴史

1 ことはじめ

わが国における鉄道郵便輸送の歴史は明治5年5月7日の品川横浜間仮開業に遡ります。蒸気機関車が牽く列車が「陸蒸気」と呼ばれ、「♪♪汽笛一声新橋を~」の鉄道唱歌で歌われた新橋横浜間開業よりも前でした。時はまだ近代郵便制度が緒に付いたばかりで、それ以前からの飛脚(人が走って運ぶ)、馬、船などに頼る方法から新しい輸送を模索していた時代のことです。この鉄道開業に目を付けたのが、当時の郵便輸送責任者といも言えそうな「駅逓頭」を勤めていた前島密で、仮開業する前の段階で、鉄道の運営を行う「鉄道寮」の責任者である「鉄道頭」を務めた井上勝に対して、列車に郵便物を積んで運ばせてほしいと要請しました。国内で東京横浜間のみ鉄道に頼っても全国の中で恩恵を受ける人々は限られたものでしたが、当時すでに欧米先進国では鉄道の輸送が行われていたのでわが国も習いたいという思いがあったかもしれません。

一説には19世紀なかばのフランスで郵便馬車を駅に横付けて馬を外した車体を貨車に乗せたのが世界における始まりとされており、江戸幕府、安政の大獄といった大河ドラマで放送されそうな出来事のころにはもう鉄道郵便輸送をしている国があったことになります。また、その形態が郵便車への積み込みでなく、一時わが国でも実施された「ピギーバック」(トラック又はトレーラを貨車に載せて輸送)的な形態であったのも興味深いところです。

さて、前島の要請に対して井上は回答しました。原文は難解なので訳しますと、
「東京(新橋)
の開業はまだ先だけど、品川の八ツ山下っていう土手の下から試運転するので運んであげるよ。車内の一室を置き場所に使っていいから、必ず発車時刻までに郵便の職員が行囊(こうのう:袋又はバッグのようなもの)に入れて持ってきて。」
という内容だったようです。
付け加えて積み降ろし、保管室の施錠や占有面積をどうするかなどが協議されたような記述です。かくして、仮開業開始2日後の5月9日から、1日あたり5往復で、車両の荷物室と思われる場所を借りて郵便物を詰めた行囊を載せ、郵政職員ではなく鉄道乗務員による看守又は保管室施錠をして輸送が始まりました。当初、郵便物がいかに貴重品と扱われたかがわかります。ここでいう試運転とは仮開業の運転を示すものと思われることから、正式開業に先立って郵便輸送に応じた井上は、その必要性に理解を示したというところでしょうか。

さらに、明治5年には両者で約定書が交わされ、運送全般について具体的に取り決めがなされます。その中で、郵便専用室の設置、駅逓寮官員(郵便局員)の同乗が明記されており、一車両まるまるの郵便車ではないまでも、車両の一部が郵便室となる「郵便合造車」の誕生と郵便局員の乗務開始という画期的なものでした。

2 車中継送区分制度

その後は、この輸送方法を各地で開業する鉄道で行っていましたが、東海道本線、東北本線の全通により列車の運行距離が長くなると、沿線受け渡し局も増え、輸送量も増えていくため、行囊を積み降ろしするだけの方法では在中郵便物の数量が行囊により多かったり少なかったり差が生じるし、数量が少ない行囊が車内を占めると輸送効率が下がりました。そこで、明治18年に駅逓局を引き継いで発足した逓信省は同25年3月25日に「鉄道郵便取扱手続」を制定し「車中継送区分」を開始することとなりました。これは、郵便車内に郵便物が区分できる設備(区分棚)を設置し、沿線局は列車の進行方向に宛てた郵便物をとりまとめた行囊を列車に引き渡すと、乗務員が輸送中に郵便物を仕訳けした上で、沿線駅の最寄り局に引き渡すというもので、行囊ごとの在中数両を均等化することで車内容積を有効に使えるほか、それまで走行中は次駅まで待機していた乗務員の区分作業により効率的な輸送に寄与するというものでした。時代は車両性能の向上による列車のスピードアップが行われ、運転距離が長くなり、輸送量も増加傾向だった上、これもまた先進諸外国が行っていた方法となれば、車中継送区分制度は時代の要請であったわけです。同年には、これまで輸送していた信書のみならず、国民相互間で送られる小型荷物、すなわち「小包」は民間でなく国営による運送が相当との考えから郵便小包の取扱が始まり、列車内でも取扱われるようになりました。

3 鉄道郵便局の誕生

明治30年代には主要長距離路線が開通し、全国の路線が次第につながって鉄道郵便車の長距離運用が増え、乗務時間、距離が長くなっていきます。その距離は明治20年開業当時の7倍にまで伸長しており、明治36年には7,000kmに達しました。当時の逓信省(日本郵便、郵政省の前身)は、それまで沿線の郵便電信局に鉄道郵便掛を置き乗務させていたのを改め、明治36年4月1日、ついに鉄道郵便局を誕生させました。設置したのは、東京、札幌、青森、仙台、長野、金沢、名古屋、大阪、神戸、広島、熊本の11局で庶務、乗務の二つの掛かりで構成しており、その後は情勢により沿線郵便局の管轄にされたり、所在地の変動はありましたが戦後は前記11局のうち神戸は大阪に統合された以外に、旭川、新潟、米子、高松を加えた14鉄道郵便局が最後まで国内郵便輸送の根幹となって機能し続けました。
鉄道郵便局の任務は
(1)郵便物の大量長距離運送
 (2)郵便車中の継送区分取扱い (3)駅における郵便物の授受媒介 (4)郵便物の護送
が主なものでした。この後、現場では「鉄郵」(てつゆう)という言葉が浸透していきます。

4 その後の発展

明治時代末期には全国の主な鉄道は国有化が進み、大正11年には14,000kmにまで伸び、人力や馬に頼っていた郵便輸送は、鉄道が完全に主役となっていきます。昭和に入り、満州事変などの戦争勃発にあっても鉄道の責務は重んじられ、経済発展、人口増加による郵便物の増加で鉄道郵便輸送への社会的要請は増え続けました。太平洋戦争の時代は、相次ぐ空襲による列車、施設の被害、乗務員の出征による減少など困難を極めながらもそれを乗り切りました。終戦時は鉄道の被災で列車の激減と人員、資材不足に加え、郵便車も多く破壊された中で輸送は困難を極めましたが、昭和20年11月以降のダイヤ、車両数復元により、郵便車数、連結列車数も次第に増えて、戦後復興を担う郵便の責務向上に対応していきました。このころの文献ではもう行囊という言葉はなく、郵便物は郵袋(ゆうたい)という麻製の袋に納められて輸送されていました。また、逓信省は昭和24年に郵政省に改組されました。鉄道の国有化、発達と共に明治初頭の鉄道寮も鉄道院、鉄道省と改組され、郵政省発足と同じ年に「日本国有鉄道」(国鉄)が発足します。その後、鉄道郵便輸送の最後、国鉄荷物輸送廃止、民営化まで、この両者は一蓮託生となってゆきます。

5 経済成長と鉄道郵便全盛期

昭和30年代から40年代にかけては経済成長が著しく、それに伴う郵便物の増加が続きます。全郵便輸送に占める鉄道の割合が最大だったのは昭和29年度の41.8パーセントでした。その後は、高度経済成長期に向けてさらなる輸送量増加、列車のスピードアップと郵便車の増加、大型化が進んだ結果、昭和47年度には鉄道郵便車の一日走行延べキロ程は126,258km、となり、鉄道輸送量はこの年代がピークとなりました。(鉄道の割合は自動車など他の輸送が増加しため昭和29年以降減少) 多くの急行、普通旅客列車には郵便車が連結され、地方路線や私鉄も含め全国に鉄道郵便線路を延ばしていたのはこのころです。

6 「客荷分離」と輸送合理化

郵便車は手小荷物を運ぶ荷物車と共に旅客車両という種別であったため、原則は旅客列車に連結され、旅客乗降ホームにおいて積み降ろしをしました。まだ鉄道郵便輸送をしていたころ、大きな駅のホームにはどちらかの端に荷物エレベーターがあって、台車に積まれた郵便、荷物がホームを行き来して、列車に積み降ろししていた光景を覚えておられる方も多いと思われます。国鉄が扱う荷物は郵便物の何倍も多く、民間宅配便がなかった当時は、貨車輸送で運ばない程度の小荷物は駅に持参して国鉄やそれと連絡する私鉄などに頼めば受取人最寄りの駅まで届けてくれました。後には集荷配達が行われましたが長く駅持ち込み、駅引き取りが小荷物の原則で、郵便小包は大きさ重さの制限があるので、それ以上の荷物は国鉄小荷物に頼るところが多かったわけです。また、昔は旅行中の手荷物が大きく、客室では場所を取るので、客車の一部に荷物室を設置した車両に有料で載せており、明治時代の開業時点で「手小荷物」と表示した荷物室付き車両が存在し、郵便輸送はここの借用から歴史が始まるのですが、次第に小荷物専用車両、つまり荷物車が旅客列車に多く連結され、郵便車と共に欠かせないものとなっていきました。

しかし、国鉄側にとっては、この郵便、荷物輸送が旅客輸送の支障となっていきます。理由は、
(1)旅客数
が増えて客車を増結したい年末繁忙期などに郵便、荷物も増加して増結要請があるので車両数、機関車牽引力、ホームの長さに限度があり、客車、郵便荷物車とも増やせない。
(2)駅によっては
旅客乗降よりも荷物等の積み降ろしに時間がかかり、停車時間を必要以上に長く取るダイヤにしなければならず、運転時間の増加、遅延を招く。
(3)旅客ホームを
郵便荷物搬送車が往来するため、旅客混雑との輻輳が生じて安全面からも良くない。
といったものでした。
さらに小荷物固有の問題としては、都市部から地方への荷物に比べ、逆方向の数量が少ない傾向から、いわゆる片道輸送になりがちで、荷物車、乗務員の効率が悪く、荷物取扱い数量が多かった時代に経営面では赤字に向かいつつありました。

これを懸念した国鉄は「客荷分離」という施策を打ち出し、郵政に対しても、郵便輸送は荷物と共に旅客列車から分離して専用列車を仕立て、一部取扱駅を貨物駅にするという提案をします。昭和4年には東京大阪間に荷物車のみで組成した専用列車の運転を開始していましたが、昭和37年のダイヤ改正で本格実施するというもので、郵政にとっては、必ずしも喜んで受け入れられるものではなく、全国にあった郵便線路という輸送ルートを各所で再編成しなければならず、特に専用列車通過駅最寄り局との輸送対策が求められるという厳しいものでした。
先に国
鉄と郵政省は一蓮托生と書きましたが、厳密には小荷物と郵便物の輸送が一蓮托生でした。というのは、郵便車、荷物車が隣どうし連結されているのは、駅設備、例えば荷物用エレベーター、吊り上げ移動機(テルファー)、トラック発着口などを共用することで両者の施設は駅構内でも隣接していることが多かったからです。
かくして、
国鉄側の逼迫した理由から打ち出された客荷分離には郵政側も合わせざるを得なかったため、旅客列車にも一定数の連結を残す等を国鉄に要望して、折衝、協調の末、「荷物列車」は東海道山陽本線、東北本線を手始めに主要幹線に拡大していきます。ある年齢層以上の鉄道ファンのみなさんは、荷物列車を見たり撮影した方も多いのではないでしょうか。特に東海道山陽本線では人気の名機であるEF58形電気機関車が先頭に立ち、特急、急行列車の牽引を終えたあとも荷物列車の先頭に立ち続けました。また、当時の国鉄旅行者必携であった交通公社の時刻表には主要線区のページに荷物列車の時刻も併記されており、運転時刻を知ることができました。
大変だったのは東京鉄郵で、
積み降ろしする始発駅が東海道方面が東京駅から汐留駅、東北方面が上野駅から隅田川駅という、従来貨物駅であった場所に変わったことで、両駅に乗務員、駐在員を置く分局を設置しました。また、東京の輸送の拠点であった東京中央郵便局は東京駅前にあり、地下通路で東京駅とつながった構造で、東京駅からの発着に適していため、汐留駅との間を中継するトラック輸送を必要としました。また、旅客列車連結郵便車があるので東京駅、上野駅にも分局が残りました。また、荷物列車は主要駅のみに停車し急行列車相当の速度で運転したため、従来普通列車により受け渡ししていた沿線局に対しては、停車駅で前後する普通列車への積み替え、あるいは中継する自動車便の設定で対応しました。国鉄は荷物輸送でも同様の措置を取っていました。

客荷分離は一定の成果を上げたかに見えたのですが、こんどは国鉄にとって、荷物輸送と貨物輸送で発生する赤字経営が浮上してきます。そのため、国鉄では荷物取扱をしていた旅客駅の無人化、貨物取扱駅の集約、取扱路線縮小などの合理化を図ったため、後の大幅な運賃改定も相まって、国鉄の荷物、貨物離れを加速させました。時を同じくして、昭和50年代に台頭した民間宅配便の普及は国鉄荷物、郵便小包の取扱数量の減少を招き、送達日数が早く、集荷配達サービスが良い宅配便が次第に支持されていくのが現実でした。昭和56年ころを境に郵便車内の郵袋容積が減少し始め、幹線の主要便では天井まで届くほど積み上げていた郵袋の山が次第に低くなり、側窓から外が見えるようになっていきました。
そうした
情勢の中でも鉄郵職員は輸送に奮闘を続けました。そして、われら元鉄郵マンにとって忘れられない「59・2」改正を迎えるわけです。

7 輸送縮小と廃止

(1)59・2改正

国鉄では昭和59年2月1日のダイヤ改正で貨物輸送の抜本的合理化を骨子としたダイヤ改正を断行しました。これまでは、大型、小型のさまざまな用途の貨車を何でも連結した貨物列車が主体で、主要都市ではヤードと呼ばれる線路数が多い施設で貨車を解放、仕訳しては再組成して列車を仕立てていたのですが、それに伴う到着日数増加と経費増大が問題となっていたので、主要貨物駅相互間を直行して、コンテナ、石油類など物資別専用貨物列車による輸送に切り替えました。実はそれ以前から郵便物も一部は貨車、コンテナによる輸送が行われていて、有蓋貨車とコンテナを比較するとコンテナのほうがずいぶん早く到着したものです。
一方で、
荷物輸送に関しては一見貨車のようなバレット荷物車の導入、複数個割引サービス、集荷配達のスピードアップといった近代化を進めたものの赤字の挽回はできず、荷物輸送廃止の構想に着手していたようです。

そして、この改正で、何よりも大きな改革となったのは郵政、特に鉄道郵便局でした。明治時代以来続けられてきた「車中継送区分」制度の廃止が行われたのです。具体的には、郵便車内で郵袋在中の郵便物を区分設備を使って仕訳する作業を廃止して、以後は郵袋の積み降ろしのみ行う護送便と、乗務員が乗らずに郵袋を積載して施錠する締切便だけとする改革でした。これにより、取扱路線、特に地方幹線、ローカル線の多くが廃止され、分局も各地で同時に廃止されています。1月31日には各地で最終便の始発終着駅で終便式、分局廃局式が挙行され、最終便では沿線受け渡しをした局員らと乗務員の別れのあいさつが交わされました。車内は郵袋よりも花束が目立った列車もあったとか。明けて翌日からは、幹線の輸送も取扱便廃止による連結両数減少、乗務員の配置転換が行われ、主要駅には輸送センターという、自動車便、航空便と鉄道便との接点となる施設が設置され、多くの鉄郵職員がここに異動しました。「ゴーキューニ」という言葉はいまでも多くの職員の脳裏に残っています。ここに多くの郵便車が廃車となり、他に引き取り手がないまま解体されていきました。

(2)61・10改正 鉄道郵便輸送の廃止

国鉄民営化の足音が近づきつつあったこのころ、国鉄は荷物輸送の廃止を打ち出します。民営化までには完全になくしてから新会社にバトンを渡そうとしたとも言われます。

郵政側にとっても、この時代には全国の主要航空路線に郵便物を搭載し、高速道路の発達、延伸により、地方への自動車輸送もスピードアップしていたため、限られた幹線で郵便車による輸送を続けることは必ずしも効率的ではないとの判断があったかもしれません。人にしろ貨物にしろ鉄道の特性は大量高速輸送であることを考えると、輸送量が減少していた郵便車の維持のために、鉄道郵便局、分局、乗務員事務室などの施設維持管理と職員の雇用は得策でないとの判断があってもおかしくはありませんでした。また、駅施設も荷物輸送が廃止された後にひとり郵便だけが占用できるのかという問題もありました。そのため、荷物輸送の廃止よりも一足先となった昭和61年9月30日、汐留駅など主要鉄道郵便局がある駅で最終列車の終便式や鉄道郵便局の廃止式典も行われ、その様子はテレビニュースでも大きくとりあげられています。こうして、昭和61年10月1日に鉄道郵便局、鉄道郵便輸送は廃止となり、明治5年に始まって以来、114年の歴史に幕を閉じました。そして、すべての郵便車が廃車となり、保存で生き残った少数を除き解体されました。中には59・2改正の直前に新製した車両も多くありました。

8 現在に続く鉄道郵便

郵政省はその後総務省移管を経て、日本郵政グループとなる民営化を果たしました。国鉄もJR各社に分割民営化され現在に至ります。現代では郵便物を鉄道で全く運ばないのか、というとそうではなく、ダイレクトメールの大口郵便物など一部の郵便物はJR貨物のコンテナ列車を利用しているようですが、これまでに記した「鉄道郵便」の語義は、鉄道郵便車による輸送を指すものとご理解下さい。

そして、奇しくも61・10鉄道郵便廃止のあと解体を免れ、青森からはるばると石川県の能登線に回送されてきた1両の郵便車がありました。それが「オユ102565」です。これが、国鉄能登線から転換された「のと鉄道」で保存される運びとなり、ひとりの鉄道ファンが「これを譲って下さい」と打診すると応じていただいたことから民間ボランティアによる保存活動が始まりました。そこに鉄道郵便OB、現職郵便局員が加わり、当会の活動をここまで続けてきました。私たちは、今まだ鉄道郵便の歴史は続いている、と自らに言い聞かせ、この保存、公開活動を続けることで、鉄道郵便局職員が職務に奮闘したとき誰もが持っていた特別な観念で、今も職員に語られる「鉄郵魂」を受け継いでいきたいと思うところです。

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