鉄道郵便のエピソード

ここでは、これまでの保存活動で乗務員や駐在、管理部門、沿線局員、輸送業務を支えた人たちからお聞きしたエピソードを綴ります。

大阪鉄道郵便局

第一乗務課 東門線(東京門司線)大阪糸崎間

【乗務員から】

★岡山県は姫路までに片付けろ!

「東門下五号便に乗った当時、他の便と違うところがいろいろあった。神戸の次は加古川で明石に停まらないので、締切郵袋を読み上げていて加古川東局宛ての郵袋をうっかり加古川の山に乗せてしまいそうになったが、しばらく考えこみ、加古川東宛ては明石降ろしが原則なので便長に確認した。『そらまあ、神戸(降ろし)やな』と言われ、いいのかなと思いながら積み上げたがそれで正しかった。大変なのは、姫路で姫広下二号便に結束するので、岡山県のうち土居野馳間(姫新線、芸備線沿線)は姫路で同便に引き渡さなければならなかった。しかし、その区間の郵便物が車内開披郵袋(阪糸乗務員岡山県)に混じっているから、岡山までに処理していては間に合わない!最近区域(兵庫県)をさっさと片付け次第に処理に取りかかった。普通通常に負けず速達が多く、東京方面から朝一の飛行機で航空郵袋が大阪に運ばれ車内に入り込む。速達区分棚にいる1名の速達担務だけでは追いつかないので通常担務が普通通常の郵袋掛けから郵袋を外して郵袋室に仮置きし、郵袋をめ一杯掛けて、上の補助区分棚ともども岡山、倉敷、姫広下二、広島の速達標札を付けて速達を手伝い、定形外の大きな速達はここで郵袋に投入した。あらかじめ大阪鉄郵が車内で必要な予備郵袋を多く積み込んでいるが、航空郵袋が余剰になり並甲郵袋が足らなくなるので苦肉の策として岡山、倉敷への速達は余り過ぎる航空郵袋で締めた。標札に『並代』と朱書すると聞いたがそれも省略していたと思う。大阪中央局は通常郵便物の多くを『姫新乗務員土居野馳間』宛てに差立てて積んでいるから車内で開かなくてよかったので、これは助かった。

★郵袋の山の上で生き埋め!?

「夏期繁忙期で何かと郵便物が増えた時期、東門上五護送便に乗ったときのこと。後寄りの郵袋室の奥が掛け網に仕切られた東京以遠宛ての網内郵袋で、網をめくると車室のほぼ半分まで積まれていた。若手の補助だったので、山の上で締切担務2名が読み上げて投げてくる郵袋を積み重ねる役目を指示され、山の上に上がると天井が迫り身をかがめて待ち受けたが、次々と投げられてくると積み重ねが追いつかず、郵袋に阻まれみんなのいるところが見えなくなった。その郵袋を引き抜こうとするが非冷房車の暑さと天井の熱気、郵袋から染み出る繊維とホコリが混じった臭いとで意識が遠のいた。遠くから『お~い、生きとるか~?』の声が聞こえ、我に返った。」

★置き場所がない!

「年末繁忙期の東門下臨時護送便に扱い車の予備車であるスユ42が使われたころに乗った。そのため、小郵袋室から積み降ろしする締切郵袋は区分室にも運び入れて区分棚を塞ぐように積むからすごく圧迫感があったし、横揺れで崩れないか心配だった。大郵袋室の方は九州宛て網内郵袋が車室の半分を占め、山口県までの山積みもずいぶん手前まで来ているので、大阪で積むとドア付近が埋まったからさあ大変!郵袋は1個ずつ読み上げては降ろす駅ごとの山積みを作るが、浜阪乗務員が仕分けてくれた神戸落ちの山を崩して休憩室やら区分室に仮置きしてしのぎ、神戸、姫路を降ろすと岡山までに形を整えた。神戸、姫路は積み込まない決まりだったはずで、積まれると作業できなかったかもしれない。隣に連結する東門下臨時締切便は収容力があるオユ12護送車を使っており、車両を逆にしてほしかった。この列車に限らず、繁忙期の東門各便は締切郵袋の置き場所に苦労させられた。」

★笠岡局の搬送は

「笠岡は岡山県の受渡し駅で岡山、倉敷に次いで多くの受渡があった。井原、矢掛方面(むかし井笠鉄道という軽便鉄道があった)、島嶼地域への中継点でもあったからで、扱い便、護送便の重連だと結構な数の郵袋が積み降ろしされていた。現在は局が移転して笠岡駅から離れているが、東門線に乗っていたころは駅から300mほどの距離にあった。ホームにはおびただしい数のリヤカーで郵袋が運ばれ、初めは駅ホームだけ使用するのかと思っていたが、ある日のこと下りで受渡が終わって列車が発車したときになにげなく駅外を見ると、さきほどの大量のリヤカーが列をなして道路を局の方向に向かっていた。局と駅の間がトラックでは近過ぎるとの理由なのか、局と駅の搬送にリヤカーが使われていたようで、職員とアルバイトも多数動員しての搬送で大変だったと思う。考えれば4トントラックにオユ2両ぶんの郵袋を積んで降ろすのには時間がかかるし、リヤカーだと駅ホームに直接入れるから便利だったのかもしれない。」

★潮風のサイクリング

「事務室で滞在時間がある行路では、ある程度の自由行動ができた。できるだけ帰りの便長に行き先と戻り時間を告げて、遅刻やケガをしないよう無事戻ることは当然。糸崎では何台か自転車が置かれており使わせてもらった。坂の下の国道に降りれば東西とも平坦で、尾道や三原、足を伸ばして呉線沿線に行くと、海沿いの道路を瀬戸内海の大小の島をながめながらのサイクリングは気持ちよかった。ただ、自転車が配達用に使われていた業務用、つまり酒屋の配達などで使われそうなごついやつで、変速機もなければペダルも重く、短距離で引き返した。三菱病院まで戻ると事務室への坂道をこいで登れず、重い自転車を押して帰った。」

★戻りの列車が来ない…

下り護送便で糸崎に向かった。3日服務で糸崎ではまる一日の滞在予定だったが2日めの夜に電話があり、上り便が台風で足止めされ、東小倉にも到着しないとのことで、本局の指示と思われるが、乗務予定の10名(扱い便+護送便)くらいで制服のまま乗務かばんを下げて三原駅から新大阪駅まで新幹線に乗ったので、2日めの夜に帰着してしまった。」

★駅そばの鉢も往復乗務する!?

「東門便は数量が多く忙しいながらも、時間とタイミングによっては一息付けることもあった。ある日、下五護送だったか昼間の便で姫路受渡と岡山渡し準備が早くにでき、まだ停車時間があったので、便長のおごりで駅そばを4杯買って来いと指示されホーム中ほどにある駅そば店に駆け寄った。駅そば持ち出しで4杯、と言って受け取り、お盆がないので二人で2杯ずつ持って運び入れた。これを4人掛けのいすに座ってみんなで食べ、英賀保か網干通過中に食べ終えた。丸いエビ天と中華麺がおいしく汁も飲み干したが、しばらくは車内にいい香りが広がっていた。さて空いた鉢であるが、糸崎まで持って行き、きれいに洗って上便に積み込んで姫路駅で店に返すと言われ、事務室の台所でママレモンできれいに洗った。鉢は玄関に置いておくと、最初に玄関を出る乗務員が返しにいくとのこと。仮眠したあとで玄関を見ると鉢はもうなかった。当時は1杯200円くらいだったと思うが、記憶では支払いの時に持ち出し割り増しの10円が加算されなかったと思う。店のおばさんが服装(上半身ネクタイ、下半身に前掛け)を見て鉄郵乗務員とわかると後から鉢を返してくれるから10円を取らなかったのかな。おばさんのサービス?が受けられたこの服装で鉢を持って歩くと、女学生に笑われて恥ずかしかった。東門線のダイヤと便名は改正のたびに変化したが、当時の勉強ノートに鉢の運用表を書きたくなり、下五護送便の鉢返却は上四号便と書いた。仕事とは関係ない、どうでもいいような運用表だった。いまや姫路の駅そば(まねき食品)は全国区で有名になり、和風だしに中華めんのミスマッチが支持されている。昔は10円足して持ち出し、よく新快速の車内ですすったものだが、現在持ち出しは廃止されている。支店があちこちにでき、イコカで買えるようになり時代と共に変化しているが、いまでも食べると、オユの車内ですすった記憶がよみがえる。」

第二乗務課 阪青線(大阪青森線)大阪敦賀間

【乗務員から】

★これば務まれば全部務まる

「どこの鉄郵局にも最も繁忙を極め、作業が複雑な便、鬼門とも呼ばれる便や区間がある。若手が乗る『三表』という乗務シフトで通常担務を命じられ、訓練と見習いは阪金下、阪金上便が最初だった。昼間の運転で大阪米原間は荷物列車、米原敦賀間は鈍行列車に連結され、比較的数量が少なく、鈍行区間ではのんびりしたムードで虎姫塩津間は駅ごとに1個の錠郵袋を受渡した。それを習得したらこんどは阪富下便、阪青上一号便に乗るが、上一は夜行荷物列車で取扱数量がハンパではなく、東北、信越、北陸から関西以遠への郵便物を思い切り抱えているから深夜に敦賀で乗ると車内を埋め尽くしていた。これまで補助担務でいろいろな手伝いはしたが、正担務となると誰も手伝ってくれず、小郵袋室の締切郵袋積み上げをしたあとは、ひとり黙々と開披郵袋の開閉、予備郵袋の管理、普通通常郵便物の郵袋掛け投入、差し立てを行った。結束も複雑で、他路線便への直接引渡し郵袋もあり、米原では東門上三、京都では京出下一、京王下一、大阪では東門下三だったと記憶する。大阪中央は中央定型、大型定形外、東局、大阪市北外一(北区大淀区)を別に締めるので4区画必要で、補助区分棚、は束区分棚が不足し、足元が狭くなったが、ふだんは2段使う郵袋掛けの3段めを引き出した。スユ16がよく使われたので横4わく掛けられたものの(オユ10は横3わく)、最初は郵袋掛けが足らず、米原までに分局、東門便宛てを締め終わったら、その区画を別の局宛てに使った。よく教えられた『開いた棚を別の目的に使え』とはこういうことかと学んだ。早朝大阪到着のため、九州各地、四国、東京、東北、札幌、那覇すべての航空結束があったから予備航空郵袋も多く積まれ、区分棚では各担務が宛先局ごとに細かく区分するのを開袋台の上で並べては差し立てた。速達1通と、は束1束だけで締めるヘナヘナの郵袋もあった。草津駅取り降ろしまでにこれらを終われないと一人前と認めてくれなかったもので、指導さんからは『この便が務まれば他の便はすべて務まる』と言われて奮起した。」

★田村駅は「救いの神」

「北陸本線の米原駅から2つめに田村駅がある。無人駅で周囲はのどかであるが上下ホーム、線路の間はすごく間隔があってバラストの空き地があるが鉄道がわかる人ならここに多くの線路が敷かれていたのが想像できる。それは機関車交換がかつて行われていたからで、転線、留置するのに必要だったから。かつて北陸本線が電化されたとき、米原田村両駅の間に直流、交流の切替え地点があり、この両駅間はDE10などディーゼル機関車がつないでおり、田村以北はEF70など交流電気機関車が牽引したので、田村駅にはこれら機関車がたむろし、構内作業員も多く詰めていた。今は直流区間が敦賀の先まで伸びて、直流電車の新快速も敦賀まで到達し、田村駅にも上下とも昼間でも1時間ごとに発着する。当時乗務した阪青便は湖西線を通らず、しかもすべて客車列車だったので田村駅では機関車交換があり、最低でも10分、そのついでに特急しらさぎ等に追い越されるときはもう少し長く停まった。この停車時間が乗務時間を長くするのだが、反面米原長浜間の作業のゆとり時間を生み出した。ありがたがったのは阪潟上便で、夕刻に敦賀から大阪に向かうので荷物列車ながら各駅に停まり、米原敦賀間各局が当日集めた郵便物が多く積まれた。中でも長浜局の積み込みが多く、2トントラックいっぱいで駅に届いた郵袋が逓送員(運転手)の手で車内に積まれたもので、次の米原で取り下ろす締切郵袋の仕訳け、また郵袋を開くと中からも米原以東の郵便物が散見され、通常担務をしていても時間に追われて大変だった。しかし田村の機関車交換があったから長浜米原間の車中処理が多少とも楽になり、機関車交換は『救いの神』に思えた。この列車がEF81などの交直両用機関車に置き換えられて田村を通過されたら大変だな、とも感じたが、そうなる前に長浜塩津間の受渡がなくなったと聞く。新快速やSL北びわこ号に乗りここに停まると当時の忙しさを思い出す。」

    喫茶室 田村駅の思い出 参照

★名物にいい郵袋なし

「昔から『名物にうまいものなし』と言われる。名物の食べ物、特にお菓子などは遠来の旅行者が長時間かけて持ち帰っても腐敗しないよう、昔から添加物が多く使われたからというのが通説。今は無添加の食品が増え、包装や品質維持の技術が進み、持ち帰ってもおいしいものが多くなった。名物は旅行者のみならず、鉄道便があった当時では盛んに郵便小包で送られており、冬場に阪青上一号便、二号便の締切郵袋室に敦賀から立ち入ると、塩の臭いが鼻をつくほど漂っていた。それは、北海道から新巻鮭の小包が多く積まれていたからで、包装はしているのであろうが、積み降ろしの際の衝撃でビニール包装の一部が破れたのか、郵袋から塩水が浸み出したため。これを読み上げては積み上げると、郵袋を濡らした塩水で前掛けやズボンが容赦なく濡れた。乾くと白く変色するが、次の乗務の点呼、ホーム歩きを白く汚れたズボンでは見苦しいので、替えズボンを用意して、その間に汚れたズボンを洗濯した。東門線でも夏場に姫路と倉敷で積まれる小包郵袋で小さいのだが大変重いのが多くて、いちど足に落としてツメが紫色になり大変痛い思いをした。これの正体は姫路が播州揖保そうめん、倉敷が鴨方そうめんの木箱だった。名物の郵袋は汚れるし痛い。せめて受け取った方はおいしく味わってほしいと思った。」

★ぼくが乗った…あんな代車、こんな代車

「阪青線で敦賀へ往復するのにはだいたい決まった行路があり、行きが阪青下護送便、帰りが阪金上便になる13行路をよく乗った。ところが、所定ではオユ10(冷房)である阪金下便~阪金上便の運用に、検査入場でオユ10が足りないときの代車がよく使われた。金沢まで比較的短距離で昼間の鈍行だから代車が当てられがちだったかと思う。自分が遭遇したのは2回あり、いずれも阪金上便のほうだった。」

(その1)スユニ61

「敦賀で224レの入線を待っていると、EF70の次に、この列車では連結されないはずのスユニ61とオユ10が続き、そのあとに客車がつながっていた。機関車の次が阪金、その次が阪富上護送便のはずで、いずれのドアからも郵袋が降ろされる。ここでは乗務員が交替するのだが、阪金がオユ10であってくれ、との願いもむなしく、スユニから6人降り、オユ10から3人降りたのでスユニが阪金とわかる。(阪富上護送は敦賀から締切) 荷物室にも締切郵袋が積まれており、駐在は心得たもの。降りたご一行は金沢鉄郵の人たちで「暑かったぁ!」と全身汗まみれで下車。そう、いまは真夏…。乗る前から汗がにじみ出る。車内は扇風機がこもった熱気をかき回しており、さながらサウナ風呂。とも言っておられず、大郵袋の読み上げを済ませ、乗務員開披郵袋を開けまくるが開袋台がなければ郵袋掛けもないので、空郵袋を床に並べて郵便物を入れまくる。荷物室では、上に棚が作り付けられ、郵袋積み上げがしにくいほか、床にスノコがあるので足をすくわれそうになる。まあスユニだと区分棚もそこそこあるので不自由ながらも「阪金だから」どうにか持ちこたえた。これを阪青上一号、二号に当てられると、もっと難儀すること間違いなし。しかし乗務員が乗らない阪富が冷房オユ10で、乗って作業する阪金がスユニとは(-"-;)。逆にしてくれよ、とも言いたくなるが、そうなると扱い量が多い阪富下便も代車になるので、それも困りものかな。阪金上下が落としどころなのかと、みずからを納得させた。大阪到着後の乗務課の冷房が天国に思えたし食堂でコーラ2本をいっき飲みした。」

(その2)血迷って何を使うのか…

「別の日、と言ってもまだ残暑厳しかった日、阪金上便を敦賀駅で待つ。『もう変なのは来ないで』とか思っていると、EF70の次に、東門護送便でしか使わないはずの護送車オユ12が…。その次には『おまえは乗せないよ』と言わんばかりに冷房オユ10の阪富護送。オユ12の広い両開き扉から郵袋が降ろされるのを見ながら『ぼくらは扱い便に乗るはずだが、きょうは阪金が護送扱いなのかな』と一瞬期待する。しかし、車内に入ると、そこには凄まじい設備の数々。便長が「護送違うで。扱いやからな。」と念押しするまでもなく、全てを悟った。護送車は休憩用のいす以外は締切郵袋室、つまり何もないので、そうそうたる設備に目を奪われた。片側郵袋室の内側に事務机が4脚とパイプ椅子がいくつか、静止局(沿線にある局)の備品である郵袋掛けが4つあり、区分棚はビニールの簡易ものが3つほどヒモでくくり付けられていた。よくもここまでしたというか、もうせせら笑うしかなかった。それでも仕事の種類と量はオユ10と同じなのだから、不便を押して黙々と作業した。それでも阪青線はアカ(小郵袋)も封を切って書留もバラすから大変なことこの上ない。米原から大阪まで米原分局の人がひとり増員で乗ってくるが、お互い顔を見合わせて笑った。あの時の6人のほとんどが、こんな代物は初めて見たと言っていた。長浜の逓送員は驚いていたし、米原の駐在は「東門と間違えるがな」と言う。確かにオユ12+オユ10は東門便そのものだ。どこの車庫で誰がこんな代車を作るのか、また、だれがこの車種の代走を決めるのか聞きたかったが、護送車の扱い代車はあれ1回きりだった。」

 所定の224列車では機関車の次が「阪金上便」、次が「阪富上護送便」で共にオユ10となるのだが…

【敦賀乗務員事務室勤務女性職員から】

★みんなのために

敦賀事務室は真ん中の玄関から左半分が大阪鉄郵の宿泊場所で右が金沢鉄郵のもので、管理人は金沢に所属していました。大阪側の女性職員は3人いて敦賀に住みながら大阪鉄郵第二乗務課に所属し、3人が交替で毎日誰かが食堂での調理、清掃、寝具交換などをしました。最後までみんないい人たちに囲まれ、特に苦労はありませんが、大雪の日であっても乗務員はやってくるので仕事に穴を開けないようにがんばって出勤したものです。」

第三乗務課 大阪駅郵便室駐在

【積み降ろしアルバイト学生から】

★ホームはカマボコ?

「郵袋を台車に積んで押し、エレベーターによるホームへの搬送と積み降ろしをした。郵袋置き場では押すと重たい車としか思わないが、ホームは緊張した。あらかじめ『絶対にホームに落とすな』と指示されており、ホームに上がると本ちゃん(正職員をバイトがこう呼ぶ)が見ていてくれるが、みんな各自が台車を押すから必ずしも横からフォローしてくれないので責任重大。最初怖かったのは、押して歩くと三つある車輪がだんだん線路に近づき、落としそうになった。エレベーターがある付近は少し狭いが郵便荷物専用の場所なのでホーム端に角材が置かれて脱輪しにくくなっているが、乗客がいるホームを進んで真ん中あたりに郵便車が来るので、そこのあたりは角材などなく、できるだけ真ん中を進みたいが、駅員の事務室やいろんな設備があるのでホーム端も通らなければならなかった。聞くと駅ホームの断面は極端な話、カマボコ形に作られていて、真ん中に雨水が溜まらずに外に流れるように設計されているとか。なので重い台車をホーム端で押すと、進むにつれて線路に吸い寄せられるように外へ外へと傾いていく。そのときは少しホーム真ん中に向かうように押すといいことがわかりコツをつかんだ。」

京都分局 京王線(京都王寺線)

【鉄道ファンで鉄郵アルバイトをする大学生から】

★ぼくが見た変な郵便車

「用事でお昼の奈良線気動車に京都から乗った。いつもこの列車は先頭がキユニなのでホームには郵袋台車が待機するから積み込みをそれとなく見ているが、きょうはロングシート通勤型のキハ30が先頭なのでどうもおかしい。ところがドアが開くと乗務員2人が前のドアから乗るし、郵袋が次々と積まれる。窓ガラスには画用紙に書かれた赤い〒マークが貼られ、隣のドアから入ってすぐのところにロープが2本張られて立ち入り禁止の貼り紙があり、郵便の場所にはぶよぶよの柔らかそうな区分棚がひもで固定されていた。これは何かの理由でキハを郵便代わりにしているとしか理解できなかった。郵袋はざっと100くらいか、積み終わると駐在は台車とともにいなくなる。乗務員まる見えの席に座り興味深く「見学」する。いつもはキユニなので決してできない貴重な見学。乗務員は制服から作業着に着替え。ぼくが駐在でするようにひとりが郵袋を持っては「通常宇治」「奈良」「通常橿原」などと読み上げると便長さんも復唱する。乗り合わせた乗客も結構いて、みんなも見学(見物?)している。列車が動き出すころには、郵袋を開けて床に中身をぶちまける。そしてふたりでせっせと区分していた。便長が赤白の袋を、もうひとり若い人が手紙を分けていた。ひざにゴム板を置いて消印もしているが、やりにくそうだ。長いすの上にも郵便物を乗せては仕分けて郵袋に入れている。キユニよりも絶対にやりにくいと思った。上にある網棚には小包を乗せており、車内をうまく使っている。どうやら次は宇治まで受渡はないようだが、やがてハプニングが。キハは駅でもドアは手で開けて、閉めるときだけ自動ドアなのだか、このキハ30やら35は完全自動開閉なので、次の東福寺で郵便のドアも開いてしまい、おばあちゃんが郵便のところに入ろうとしたから乗務員が「ここ郵便です、うしろのドアから入って」と言っていた。画用紙の〒マークなど気づかないのであろうが乗務員は大変だと思った。できれば、終点の王寺まで見学したかったのだが、宇治よりも手前の桃山で降りなければならないので、気がかりではあったが下車した。別の日にはキハ20の半分を郵便が使うところも見た。この車両は真ん中に仕切り壁があり郵便荷物にも使えるが、ふだんは全室に乗ることもできた。乗務員のことを思えばこういうのを使うべきでキハ30は良くないピンチヒッターだと思う。あとでこの便名は京王下二号便とわかった。」

金沢鉄道郵便局

金輪線(金沢輪島線)

【乗務員から】

★鉄道郵便車復活運転参加の車内でテレビ局の取材に対して

「金沢輪島間の乗務は(輪島での休憩宿泊がなくなってからは)10時間以上ぶっ通しで、(真夏の車内は)上(天井)から焼かれて、下(エンジン熱)からも焼かれていた。」

★臨時便はありましたか、との質問に対して

「昭和50年代の初めころまで、2月ころの季節便で金穴上臨時護送があった。能登地区では秋口に収穫した能登米で餅をつき親類縁者に送る風習があるので小包発送が増えたから。穴水から金沢への上りだけなので、乗務員は金沢から列車便乗(一般客といっしょに乗る)して穴水に出向いて、穴水事務室(民家借り上げ)で休憩後に乗務した。便長クラスと新米の2名乗務で車両はキハユニ車が使われていた。」

【中島郵便局運送員から】

「金輪便の受渡しをするため中島駅に郵袋を運んだ。昔は自転車で、のちにバイクになり、郵袋数が増加したので軽四を使うようになった。」

「下一号便だけは早朝なので中島で受渡しがなかったため郵袋は七尾で降ろされ、当時走っていた国鉄バスで運ばれて来たので中島局近くのバス停で受け取った。」

高岡分局

【駐在員から】

「新湊局との運送は路面電車(当時は加越能鉄道、現在の万葉線)も使って託送していた。通常郵袋の小さいものは大郵袋に詰め込んでマル合扱いとして高岡駅前の停留所で運転士に渡して運んでもらい、新湊の停留所では局員が受け取りに来ていた。」

※解説
「託送便」~特に通常郵袋を所定の鉄道便、自動車便よりも早く送達するため、国鉄私鉄の荷物車、航空、船舶、路線バスなどの運輸機関に小荷物として運送を委託する便

「マル合」~合納郵袋のこと。標札に合の字を○囲みしたゴム印を押すことから。託送便により運送する場合は、合納により郵袋の重さが増しても個数を減らせることができるので運送代が節約できた。

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