鉄道郵便のQ&A

2021年5月7

このコーナーは、これまでのオユ10保存、公開活動で見学されるお客様から寄せられたご質問や、事務局に電子メールで届いたご質問への回答をとりまとめたものです。ほかの鉄郵塾各項目と合わせてお読みいただければ、鉄道郵便輸送のいろいろなことがわかります。

1 輸送

(Q) 鉄道郵便輸送は、1986年10月1日で廃止とありますが、以後は鉄道輸送を全くしなくなったのですか。

(A) この日は、鉄道郵便車(客車に分類)で輸送する鉄道郵便線路を廃止した日です。その後は、コンテナ貨物列車による輸送が継続され、国鉄民営化後はJR貨物と通運会社に委託した輸送で、一時期は「ゆうパック」標記のコンテナもありましたが、その後はダイレクトメール主体の輸送に利用しているようです。以前はコンテナに荷票という厚紙がはめこまれ、「〒郵便物」と記載されていることで郵便物を運ぶコンテナがわかりましたが、2006年1月に荷票が廃止され、現在は外見では判別できません。また、2019年3月から岐阜県明知鉄道で客貨混載事業による旅客列車の郵便輸送が開始されていますので、今後の広がりを期待したいものです。

   トピックス 快挙!明知鉄道の客貨混載で郵便輸送を開始!

(Q) 鉄郵塾「受渡員」を読むと沿線郵便局から駅に出向いての受渡業務がわかりますが、列車が遅れたときはどう連絡したのですか。

(A) 鉄道郵便局が国鉄から郵便車連結列車の遅延について連絡を受けると、沿線受渡局に電話連絡をします。また、定時運転の列車が途中駅から何かの理由で遅延し始めた場合は、駐在員、受渡員が駅や郵便局の電話で次の受渡局に連絡し、順次先々の局にリレー連絡するなど臨機応変に伝達していました。連絡を受けた郵便局も、上下数本の郵便車のうち、どの列車が何分遅れかを把握して、郵袋差し立てと局出発時刻の決定や搬送する職員、自動車のやり繰りに大変な苦労があったと聞きます。

(Q) 東門線などで郵便車を2両以上連結した列車では、それぞれの郵便車に積む郵袋の宛先や種別を区別していたのでしょうか。

(A) 大阪青森線などで、同一列車に扱い郵便車が2両連結されていた場合、それぞれに運行区間が異なっていたり、いずれかの車両が護送扱い、締切扱いとなっているなど、輸送事情や乗務員数の調整に応じて決められていましたので、宛先や、乗務員開披郵袋であるか締切郵袋であるかに応じていずれの便に積載するかを決めていました。また、東京門司線など、扱い車と護送車がペアで連結されている列車にあっては、乗務員開披郵袋は扱い便に積載するほか、締切郵袋について、小包郵袋は護送便への積載を原則とし、速達小包、大型通常郵袋も「できる限り護送便に積載」との指針がありました。沿線局では通達された積載可能数(定数)の範囲で、普通通常締切郵袋は扱い便に、速達小包、大型通常締切郵袋は扱い便と護送便に適度に割り振りしてバランスを取っており、どちらの車両に何個ずつ積載するかは担当者の「さじ加減」と言えなくもありません。

(Q) 東門線には郵便車を2、3両連結した荷物列車がありましたが、車内が満載になったとき、駅で「乗車拒否」したり、隣の郵便車に積んで下さい」と指示することはできたのでしょうか。

(A) 積載する郵袋はすべて、積載便ごとに沿線局、鉄道郵便局、結束便が郵袋送致証を作成して郵袋と共に引渡し(積み込み)を行うため、郵袋個数は書面と一致しており、安易に積載を拒否したり、隣りに連結する郵便車(便名が異なる鉄道便)に変更して積載することはできませんでした。

(Q) 車内が郵袋でいっぱいになり、それ以上積むことができないで駅に郵袋が取り残された場合はどう措置をしたのでしょうか。

(A) 年末繁忙期など、特定便に郵袋が集中した場合に、積載が困難になる列車、駅は実際にありました。満載のため、物理的に車内に入らないなど、特別な理由で積み込み不能となった場合は、便長と受渡員との判断で、全郵袋の積載を取りやめる、一部の郵袋のみ積載して書面を訂正するなどの処理が考えられますが、駅の停車時間や郵袋個数を考慮して瞬時に最善策を取ったと思われ、便長は事後に(積載不能)事故報告書の作成など、沿線局、鉄道郵便局は積載できなかった郵袋の次便差立てなど大変な手間がかかりました。このようなことを防ぐため、各沿線局、鉄道郵便局では、鉄道便ごとに「定数」という郵袋の最大積載可能数が決められており、これを上回る積み込みを禁止して車内の郵袋数を適正化し、作業への支障を最小限にしていました。沿線局や駅駐在に、積み込むべき郵袋が定数よりも過剰にあると、小包郵袋など送達優先度が低い郵袋については、次便、翌日回しにするとか、年末など残留郵袋数が増えないよう、貨車・コンテナ締切便、臨時自動車便、水路便(船舶)を設定して、いわゆる振替輸送を行っていました。また平素から、鉄道便、区間ごとの車内郵袋数を調査、統計し、乗務員からも聴取して一時的な満載の区間が判明すると、沿線局に、鉄道便、宛先、郵袋種別を指定して積載禁止とする「積載方特定」を通達したり、一部の鉄道便や受渡駅で「積載のみ」「取り降ろしのみ」という指定をしていました。

(Q) 郵便車を運行するごとに国鉄などに契約金を支払ったようですが、列車の終点ごとに、責任者(便長さん)が駅に支払ったのでしょうか。

(A) 契約金は、鉄道郵便車の運行距離と便数、両数、車室面積により定められており、輸送計画は郵政省予算も勘案され定められるため、現場レベルで支払い、精算するものではありませんでした。郵政省の担当部署が、郵便車運行実績に基づいて、国鉄等に支払っていました。

(Q) 鉄道郵便線路図を国鉄、JR時刻表にある路線図と比べると、駅が飛ばされていたり、駅名には絶対ないような地名が記載されていますが、なぜですか。

(A) 鉄道郵便線路図に記載されているのは、駅名ではなく、受渡する沿線郵便局、鉄道郵便局(分局)の名称です。そのため、一見すると普通の鉄道路線図に似ていますが、郵袋の受渡をしない駅は記載されていませんし、駅名と受渡局名が異なっているところは局名が記載されています。ひとつの駅の印に二つ以上の局名が併記されているところは、ひとつの駅に複数の郵便局が受渡をすることを意味しており、鉄道郵便局(分局)がある駅は、沿線局と鉄道郵便局が併記されていることがわかります。資料館の結束表には駅名と局名が併記されているので参照して下さい。また、駅名とは異なる局名がどこの駅で受渡されたかは、地図で調べるとだいたい判別できるので興味深いところです。

(Q) 鉄道郵便線路図で示された駅(郵便局)相互間で、自動車便が並行で設定されていた区間の郵袋は、できるだけ鉄道便に積むのが原則だったのでしょうか。

(A) 特に近距離の都市間など、鉄道郵便線路と並行して自動車郵便線路がある区間が多くありました。どちらに優先して積載するかという取り決めは区間と郵袋種別ごとに細かく決められていましたが、特に大都市近郊の隣接駅相互間、例えば京都大阪間、大阪神戸間など、自動車便が頻繁に設定されている区間では原則として自動車便のみで輸送するものとし(結束便からの受入れ郵袋など特別なものを除く)鉄道便への積載は大阪~明石以西、大阪~大津以東、しかも遠方へ輸送する郵袋を優先的に積載することとしていました。また、「鉄道補助便」という自動車便が名古屋米原間、神戸姫路間など隣接都市間に設定されており、鉄道便で輸送する近距離郵袋をこちらにシフトすることにより、鉄道郵便車内の作業を緩和する役割がありました。その他は、鉄道便、自動車便いずれでも輸送できる宛先の郵袋は「先に来る便に積載する」という原則に従う場合や、速達通常郵便物のみ鉄道便に積載、小包郵袋は後続の自動車便とする、など地域ごとに決められた積載方による場合がありました。

(Q) 鉄道郵便線路内の輸送経路は、郵便車が小さい、又は便数が少ないローカル線でも距離的に近道なほうが経路として使われたのでしょうか。

(A) 鉄道郵便線路のうち、行き止まり線を除くと、起点、終点で他の線路とつながっているので、全国的にはある程度の「網の目」が形成されていました。そうなると、受渡駅相互に輸送経路が2つ以上あったわけですが、受渡駅(局)が存在する区間ごとに、他の区間との原則的な輸送経路が決められていました。一般論では、必ずしも距離が短い線、つまり近道で輸送されるわけではなく、できるだけ輸送量(郵便車運行便数、両数)が多い線で行いました。例えば東京門司線と京都下関線(山陰本線)の間には、両線を短絡するいくつもの郵便線路があり、区間ごとに各線の鉄道便で短絡輸送が行われていましたが、例えば大阪に向かう東京門司線上り各便に積載された京都府福知山局宛ての締切郵袋については、加古川駅で加古川谷川便へ結束して谷川駅へ輸送し、さらに大阪福知山下り便に積み替えれば確かに近道ではありますが、各便とも大阪駅で大阪福知山便に積み替えとしています。(一部京都経由) これは、加古川谷川下り便が一日一便しかなく、しかもキハユニ車で郵便室が1/4であるため、輸送量が小さいからで、各便が結束するのは線内宛て(国包、黒田庄間)に限られています。ほかにも、愛知県豊橋、長野県岡谷間は豊橋辰野線(飯田線)ではなく名古屋、塩尻経由であったり、名古屋、富山間は岐阜富山線(高山線)ではなく米原経由であったのも、多少遠回りでも輸送量がある線で輸送する原則があったからと考えられます。これを鉄道旅行に置き換えると、乗車券の値段が安い近道の線区であっても、列車本数やスピードで劣るようであれば、遠回りでも新幹線や特急を使う選択肢となりがちですね。また、小荷物輸送については原則は距離が短い経路によりましたが、ローカル線の狭い荷物車に過度に積載しないように、遠回りでも幹線で輸送する特例があちこちにあったそうです。

(Q) 鉄道郵便線路で郵袋を輸送する際に、取り決めのため、遠回りの経路で輸送すると、近道の線路よりも国鉄に支払う運送費は増加したのでしょうか。

(A) 郵便車運行の契約金は、郵便物を積載する列車、区間について、両数と距離により国鉄等に支払いました。そのため、郵袋を何個運んだか(郵政では記録が残る)、車内が満載だったかは関係がなく、運行する以上は、積まなければ損、という前提がありました。そのため、できるだけ各郵便車の積載可能数に近い数の郵袋を輸送するように各駅の最大積載数(定数)を割り振ったり、急行列車、荷物列車で通過した受渡局宛て郵袋を、先の駅で逆方向への普通列車に積み替える、いわゆる「逆送」をする結束も多くありました。前項Q&Aで、輸送経路は距離の遠近よりも、輸送量により決めたのも、車内の積載効率と作業量の適正化を図るためですが、どこの郵便車で運んでも契約金に関係がなかったのも一因かと思われます。  

(Q) 山陽本線倉敷駅は岡山県でも重要な東門便の受渡駅で、全便が受渡しているのに、 山陽本線荷物列車を当時の時刻表で見ると、倉敷駅が全列車通過となっているのはなぜですか。

(A) 時刻表は、1978年(昭和53年)10月改正以降のものと思われます。それ以前の時刻表では、倉敷駅にはほとんどの荷物列車で時刻が記載されています。これは、同日の改正により、国鉄が倉敷駅で小荷物の列車積み降ろしを廃止して岡山駅に集約し、倉敷駅では小荷物扱いは続けながら自動車代行輸送となったためです。東海道本線、山陽本線時刻表の荷物列車は、小荷物の積み降ろしをする駅が記載され、時刻表で通過となっている駅でも小荷物を扱い、国鉄トラックで鉄道中継駅との輸送を行い、時刻表に荷物列車を記載したのは、小荷物を差し出し、引き取りする利用者のためでした。一方で、郵便車にとっては倉敷駅で受渡する倉敷局は重要で、岡山県の西半分、郵便番号の上2けたが「71」となる地域の地域区分局で、特に定形外、小包郵袋の受渡数が多く、荷物列車は停車して、郵便車だけが受渡を行っていたわけです。国鉄の現場でも「郵便停車」という言葉があり、この時点で相生、近江八幡、彦根、岡崎といった中規模駅のほか、横浜も郵便停車として小荷物は汐留駅に集約した時期もありました。(のちに横浜羽沢荷物駅の開業で郵便、小荷物の両方を取扱い)

(Q) 長距離幹線では、郵便車を急行列車や荷物列車など速度が速い列車に連結したほうが郵便物が早く届くのに、一部の郵便車をなぜ遅い鈍行列車に連結したのでしょうか。

(A) 資料館にある線路図、時刻表では、東京門司線など、荷物列車主体で、受渡駅が主要都市に限られていた線路以外では、町ごとの集配局がある駅でこまめに停車して受渡しており、これが鉄道郵便輸送の本来の姿です。郵便物全体の流れを見ますと、深夜から早朝にかけて多く輸送される郵便物は、朝から沿線各局に輸送後に配達される流れとなっており、郵便物が局に集まるのは夕方から夜間にかけてが多くなります。各局が、ポスト回収と窓口の終了で当日の郵便物を取りまとめるからです。そこで、列車ごとに役割を決め、急行列車や荷物列車には、遠方へ届ける郵袋を速く輸送する役割を与え、普通列車は、沿線各局との受渡で早朝からその日に配達できるように沿線に配送し、夕方には各局からかき集めるという役割がありました。そうして主要駅に夜間多くの郵袋が集中し、深夜輸送される、というサイクルでした。

(Q) 時刻表では、鉄道便が少ない線で早朝、昼間、夜間に沿線で受渡するなど、配達や発送、局員勤務時間帯に適さない時刻に受渡する列車があります。国鉄に頼んで朝夕の列車に連結させてもらえなかったのでしょうか。

(A) 郵便車が連結される列車は、国鉄等との協議でダイヤや使用車両が決められますが、客車による通勤、登下校や荷物車による小荷物、新聞の配送という役割を合わせ持っているので、郵便だけに都合良くというわけにもいきませんでした。輸送量が多くない線では、郵便室と荷物室、客室が合造車であるため、単独で郵便物集配に都合がいい列車に連結するのが難しく、しかも限られた車両の運用も考慮すると、旅客や小荷物、新聞との同時輸送はやむを得ないものとなりました。また、郵便輸送時間帯に影響したのが当時の時刻表で見られる、長距離鈍行列車の長時間停車で、すべて、輸送ニーズ全体から決められていたところです。また、沿線局のほとんどが局員の勤務時間帯が朝出勤夕方退勤というパターンで、深夜勤務で輸送便との受渡や区分業務が必要なのは、取扱量が極めて多い局に限られますから、受渡する鉄道便のダイヤにより、勤務時間帯をシフトして対応していました。また、配達時間帯が午後になる局、窓口時間帯途中で当日の発送を締め切る局も多く、地域住民には不便でも「汽車の時間でこうなる」と納得?してもらっていたようです。さらに、郵便車を連結する列車どうしの接続時間が長すぎたりギリギリだったりする「不結束」で沿線局受渡、集配の有効時間帯と合わない問題もありましたので、その対策として、集配に都合がよい時間帯の列車に荷物車連結があれば託送便を契約したり、夜間から早朝の受渡を駅員に委託する代行受渡、自動車便の設定などで沿線局の業務に対応していました。 

(Q) 結束表では、おおまかに「通常」と「小包」で引渡し要領が分けられており、通常郵袋に比べて小包郵袋が不利に扱われていたように思われますが、どういう理由からですか。

(A) これは、普通小包の送達経路が通常郵便物(速達小包を含む)と異なる場合があることと、送達優先度に差があったことによります。そのため、限られた鉄道輸送力の範囲で、鉄道便相互に結束(積み替え)する場合など、通常郵袋のみ直接結束し、小包郵袋は積み替え駅の鉄道郵便局等に引渡すことで、次便や翌日便、鉄道以外の輸送に回すなどの結束方が多くありました。当時、小包を差し出したみなさんには申し訳ないのですが、通常郵便物と比較して、重量と大きさの割りに料金が安かったぶん優先度が低く、しかも都市間、地域間で大量安価な輸送方法が選択されたため、必ずしも郵便車ではなく、水路便(船舶)や貨物列車でまとめて安く輸送されることもあり、例えば大阪(神戸)~大分、宮崎各県を例にとると、通常郵便物(書留、速達、普通定形)は航空で、定形外(大型)と速達小包は鉄道で、小包は船舶で輸送され、送達日数は大きく違っていました。また、全国主要都市間で、小包を貨物列車に積載することで郵便車への積載を抑制したことも、小包の送達日数が余分にかかる一因だったと考えられます。のちに民間宅配便へのシェアが高まり、郵便小包が低調となったことから輸送方法の見直しが図られ、高速道路や航空輸送へのシフトで、現在の「ゆうパック」は翌日配達区域が大幅に広がっています。

(Q) 郵袋読み方教室では、鉄道郵便局、分局宛の郵袋が列挙されていますが、鉄道郵便局が到着した郵便物を地区の配達区に分けて配達業務までしていたのですか。

(A) 鉄道郵便局、分局の多くが大都市又は、鉄道郵便線路が分岐する駅にあったことから、駐在業務で大郵袋の中継、受渡だけでなく、郵便物の区分、差立を行う局もありましたが、配達はしていません。そのほとんどは、小包又は速達小包で、これらは原則として、まず郵便番号の上2けたごとに区分され、決められた「地域区分局」にまとめて送られたあと、さらに細かく各局宛てに区分、差立される仕組みで、地域区分局には都市ごとの中央局や主要局のほか、鉄道郵便局、分局も指定されていたからです。地域区分を鉄道郵便局に受持たせることで、沿線郵便局の業務負担を軽減させたり、鉄道郵便線路と直結しているため、駅と郵便局とをトラック搬送する手間がなくなり、区分、差立が早くできるメリットがありましたが、郵便室に場所の確保が必要でした。また、大型(普通定形外)も扱う局(下関分局)や、普通定型郵便物1通単位まで扱う局(青森鉄郵や米原分局)もありました。全国的に沿線局の建て替え、移転で庁舎が拡大されると、小包、速達小包区分のいずれか、又は両方が鉄道郵便局から沿線局に移管されていき、鉄道郵便局(分局)の地域区分業務は減少していきました。

(Q) どの郵便車に乗務しても、全国の色々な局宛ての郵袋が必ず積まれていましたか。

(A) 鉄道郵便車に限らず、郵袋の宛先は、輸送区間ごとにどこの局宛てが多いのかが決まる傾向にあり、沿線局相互間、大都市中央局、小包集中局宛てが比較的多くなっていましたから、それほど全国いろいろな局宛ての郵袋があったわけではありませんが、東門護送便など積載個数の多い車内や、郵袋が集まる鉄道郵便局駐在では毎日必ず「珍客」が出現しました。それはほとんどが小包(又は速達小包)郵袋で、だいたい3~4個でひとつの郵袋に納入したため、郵便番号の上2けたごとに決められた地域区分局宛ての小包がそろえば、当該局宛ての郵袋が作成され、だいたいどこの鉄道便でも全国主要局宛ての郵袋が積まれることがありました。郵袋を差立する集配局では、宛先局となる集配局を全国どこへでも決めることができ、まれに乗務員が知り得ない土地の小さな局に宛てた郵袋もありました。これは、おそらくですが、差出人がまとまった荷物を小包で送るのに、大きさ重さの制限から複数個の小包に分けて梱包したものを局に差し出し、郵袋1個程度の個数になれば、当該小包の宛先集配局宛に郵袋を差立することで、複数個の小包が途中で別れずにまとめて早く送達されることになります。また、大都市の取扱量が多い中央局などでも、2けた区分する過程で偶然にも同一集配局宛の小包が複数個そろえば、当該局宛てに締め切ることが多々あり、そういった機転とサービス精神で差立されたであろう全国さまざまな局宛ての郵袋が車中に登場したものです。標札には原則として郵便番号が併記されており、どこの局であっても都道府県がわかるので、読み上げはひと呼吸置いて「◎◎県の××~、字はこれこれ(字句説明)」と言えば伝わり、置き場所や引渡駅に困ることはありませんでした。

2 鉄道郵便車

(Q) 鉄道雑誌やインターネットで郵便車連結列車の写真を探すと、EF58形電機機関車が牽く列車が特に多いのはなぜですか。

(A) 郵便車は基本的に旅客列車か荷物専用列車に連結されていたので、機関車は明治時代の蒸気機関車以来、どの形式でも牽引しています。ただ、鉄道による郵便輸送量と連結列車が増加したのが戦後の高度経済成長期と重なり、全国主要幹線が電化されると、直流区間ではEF58が、交流区間では東北のED75、九州のED76が旅客列車で多く活躍し始め、特にEF58は東海道、山陽本線荷物列車を始め、上越線、信越本線、東北本線(黒磯まで)といった幹線区間の旅客列車で幅広く使用されたのと、活躍時期の最後が郵便輸送廃止時期に近いことから、郵便車連結列車の先頭に立つことが最も多かったと考えられます。加えて、EF58は人気があり、多くの鉄道ファンが撮影していたので、雑誌やインターネット上に多くの写真が残されているのではないでしょうか。なお、非電化区間のディーゼル機関車では、全国的にDD51が数多く郵便車を牽引しました。

(Q) 「郵政省所有車両」の意味は、どういうものですか。

(A) 全室郵便車のほとんどがこれに該当しました。郵政省の経費負担で製造し、車両運用や各種検査は国鉄に委託し、必要経費を負担しました。

(Q) 冷房を設置した郵便車の車種、形式には取り決めがありましたか。

(A) 区分作業室に窓を多く設置して風通しをすると郵便物を車外に亡失するため、古くから扱い郵便車は窓がほとんどない構造であったため、夏期の車内は蒸し風呂そのものでした。オユ10形式などが新製時から、又は改造により冷房が設備されていたのは、作業環境改善のためで、郵政省に明文化された規程があったかは不明ですが、使用車両の指針として、郵政省所有の扱い便車両を可能な限り冷房装置を設置するものとされたようです。全室車両でも、大半が郵袋室で窓が多くある護送便車両には設置は見送られました。また、半室郵便車など客室、荷物室との合造車両は国鉄又は私鉄所有車両であるため、郵便室のみ、又は全車両に冷房が設置されることはありませんでした。

(Q) 保存車両を見学すると、荷物車の床は車両中央部の前後方向に通路があり、その両側の荷物を置いたと思われる部分に枕木方向の角材が敷かれ、上には棚が設置されていますが、郵便車の郵袋を積んだと思われる場所にはそういった設備はなく平滑な床です。なぜこのような違いがあるのでしょうか。

(A) これは、手小荷物と郵袋の積み方の違い、積載物の形状と性質による違いです。まず荷物車ですが、全室荷物車で片側2ヶ所の側扉がある車両ですと、車両端に乗務員室がある以外はすべて荷物室で、乗務員はどんなに荷物が満載でも車両を端から端まで行き来して、荷物の仕分け、整理、取り降ろしをするため、車両中央部を通路にしており、枕木方向の角材(スノコ)は、荷物のすべり止めと、鮮魚荷物などから水分が漏れ出ても車外に流す役割があったと聞きます。荷物は相対的に箱形のものが多く、これを土台にした上にふとん袋など不規則な形状の荷物を乗務員の熟練技で積み上げ、走行中の振動でも崩れないようにしていました。上部には吊り棚もあって、軽量、小型荷物などに使われたようです。一方で、郵便車の郵袋積載場所(締切郵袋室)は、古くは木製の平床で、のちにリノリウム床が普及しましたが、荷物車のような中央通路やスノコ、吊り棚はなく、これらがあると郵袋に適さないという、作業上の理由からでした。全室郵便車を例にとりますと、片側2ヶ所の側扉の間に区分作業室(護送郵便車は休憩室)があり、輸送便ごとに決められた郵袋積載区画は、車両端の壁面(妻面)を郵袋で埋め、手前(側扉)に向かって積み重ねることを前提としており、乗務員が車内を端から端まで移動することは必要ではなく、先に降ろす郵袋を手前に積めば問題ありません。また、郵袋は荷物に比べて角張った箱形(小包郵袋)の比率が少なく、小包の詰め合わせによる複雑な四角形、丸餅や座布団のような形状、円筒形郵便物(設計図、ポスター類)を含む複雑な形状が入り交じり、これらを列車の振動でも崩れないように積むには「石垣積み」という職人芸でお城の石垣のように台形の山を降ろす駅ごとに車内にいくつも作る必要があり、数が増えると天井まで埋めつくすことも多々あって、中央に通路を設けるレイアウトは不可能でした。そのため、床のスノコ、通路の板張りや吊り棚は不必要であったことが、荷物車と比較した構造の違いとなっています。ちなみに、郵便車が検査などの理由で荷物車に代用される列車に乗務すると、(会長の経験では)スノコにつまずいたり、棚に頭をぶつけたりで、適していないことを実感しました。逆に、護送郵便車が荷物車代用に使われたことが乗務員OBさんの証言であり、スノコがないためか、水もの荷物の積載が禁止されたそうです。

(Q) 東門便などに扱い車両と護送車両がペアで連結されていましたが、駅に停車中の2両の間に貫通幌が渡されていません。貫通路を通って相互に行き来するのが危険ではなかったでしょうか。あるいは、行き来するのは駅停車中に限られていたのでしょうか。

(A) 同一列車に2両以上の郵便車が連結される場合は、それぞれが独立した郵便車(移動郵便局)であり、相互に乗務員が行き来することはないので、貫通扉は内側から施錠され、郵袋の積載状況によっては扉が塞がれていたため、貫通幌も接続しませんでした。また、輸送中の取り決め(結束方)により、連結する郵便車相互に郵袋を受渡する場合は、停車駅で、受渡員を介して行いました。

3 鉄道郵便職員

(Q) 乗務員が鉄道郵便車に乗る際に乗車券、又は証明書は必要でしたか。

(A) 必要ありませんでした。食堂車乗務員、車内販売員、車内清掃員など列車内業務従事者のひとつと見なされ、制服を着用したため、駅改札口では何も提示せず出入りし、改札口以外の業務用通路も通行できました。なお、乗務行路の一部で旅客列車に便乗する場合は、乗車証を携帯し、改札口や車掌に提示した局もありました。乗務員以外の郵政職員等が手続きを取り郵便車に便乗する場合は所定の証明書が交付され、駅改札口通行時に提示しました。

(Q) 鉄道郵便職員は休日でも国鉄などに無料で乗車できましたか。

(A) できません。職務として鉄道郵便車に乗務、列車便乗する場合のみ、乗車券不要又は、無料の乗車証が交付されており、勤務外の鉄道利用は正規の乗車券等が必要でした。参考まで、乗務員が乗務行路の途中で乗務先の事務室から他駅の事務室まで私服で電車に乗車するよう鉄道郵便局から指示された際には交通費が支給され、乗車券を買って乗車したケースもあります。

(Q) 鉄道郵便局でアルバイトはできましたか。

(A) 多くの鉄道郵便局、分局には、主に大学生のアルバイトが多くいました。(かつては高校生も) 非常勤職員、臨時雇用員といった格付けで、多くの局では年末、夏期繁忙期のみ採用で、駐在業務が大半でしたが、習熟すると、乗務員に登用されたり、通年雇用されました。服装は、駐在員は私服に腕章着用でしたが、乗務員は正職員と同じ制服、携行品でした。

(Q) 鉄道郵便局食堂や乗務員事務室の食事代は自己負担でしたか。また、メニューはどのようなものがありましたか。

(A) いずれも職員の自己負担でした。鉄道郵便局食堂は、限られた局にしかなく、隣接の中央郵便局職員食堂などを利用しました。メニューは一般の食堂に似たもので市中価格よりも安く、昭和50年代当時で、きつねうどん150円、カレーライス200円、トンカツ定食320円など。また、国鉄職員食堂を使わせてもらったり、小規模な分局では出前を取るなど対応しました。乗務員事務室については、官営の事務室では多くの局で鉄道郵便局又は乗務員組合が事務室で給食、清掃等の業務を行う職員を雇用し、民営の小規模事務室では民家・商店等と委託契約しており、食事は自由に選べるものではなく、事務室職員(又は大家さん)の計画で献立された、定食タイプの食事をいただき、食事代は乗務員ごとに乗務行路と食事回数が計算され、寝具交換、消耗品代月額を加えた金額が給与から減額されるのが一般的でした。

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